カタリスト

思考を暗所で常温保存

お金とコンテンツと、時々オカン

 

どうも

 

知人のFacebookの「傘盗まれた…」という投稿に

すごい量の「いいね!」がついているのを見ながら

善意とは残酷なものだなと思っている僕です

 

今日は「コンテンツを買う」ことについてです

 

普段何気なしに行ってる「物を買う」という行為ですが

曲がりなりにも自分で物を売るようになって

「みんな何かを買うとき、何を考えてその決定を下すんだろう」

と思うことが増えました

 

僕が今日何を買ったかを思い返してみると

朝はまぁいつも通り1分でも無駄にするとデッドラインに達する時間に目覚めたので

何も食わず店にも寄らず事務所に向かったわけですが

それから午前中はせっせと作業し

昼間には

「お、新しいパスタが出とるがな」

と思い、青いコンビニで「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」を購入

 

午後は動画編集の仕事を終え

昔イービーンズの天敵だった赤い店でうどん(¥120)を買い

2点まで260円だったので到底食いきれない量のハッピーターン×2を買い

ハッピーパウダーまみれの指でこのブログを書いているわけですけれども

 

「自分が何でそれを買ったか」を思い返してみると

けっこう物を売るときのヒントにもなるなぁと思いまして

まず、なんで「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」を買ったかを思い出してみると

 

前提として

「腹が減った」

という根源的な欲求があったわけですね

 

「そうしないと困る」というのは非常に強力な行動動機になるなぁと思っていて

先日観た「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の中で

主人公を演ずるディカプリオが

(最近の彼はレオ様というより非常にディカプリオな感じですね)

 

「俺にこのペンを買わせてみろ」

 

と仲間たちに言いながらチンケなボールペンを渡すんですね

 

言われた仲間たちは

 

「このペンはとても品質が良くて」

「インクがスイスイ」

 

とか一生懸命言うんですがディカプリオは呆れるばかり

 

それで仲間の黒人俳優を指して「売ってみろ」と言うと

その黒人は一言、

 

「名前を書け」

 

と言うわけです

そしてディカプリオはその回答に満足する

 

必要性を作れば物は売れるわけですね

今日僕がパスタを買ったのはその理由が大きいと思います

 

基本的にいわゆる三大欲求は人間から涸れることはないので

食・性・睡眠に関わる職はどれだけ時が進んでも残り続けるんだろうなと思います

「睡眠」ってちょっとニッチすぎる市場じゃないのって話ですけど

これ単に宿やベッドという意味じゃなくて

仏教用語で「睡眠欲」って「楽をしたい気持ち」のことを言うらしいんですね

 

つまり

楽をするための商品は開発され続けるだろうし

みんなもそれを買い続けるだろうと、そんなかんじのお話です

 

ということでこの三大欲求に関わるものは

人間が生きていく限り勝手に必要性が生まれるので

コンテンツとしては最強だと思います

 

逆に言えば、ここに関わるコンテンツしか儲からない時代って

あんまり文明的な時代じゃないんじゃないのと思ったりします

この前

「100年前まで遡って、その年のベストセラーを紹介した表」

twitterで見かけたのですが

現代に近づくにつれベストセラー内にいわゆる「ハウツー本」が増えるんですよね

あぁどんどん「睡眠欲」ばかり高まってる時代なんだなと思うと

なんだか空しくなりました

 

で三大欲求はちょっとキラーコンテンツすぎるので一回置いておいて

それ以外で人が物を購入するときの判断材料を考えます

 

僕が今日のお昼、ねぎとろ巻きでも他のパスタでもなく

「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」を購入したのは

「まだ一度も食べたことがなかったこと」

「他の同量の商品に比べて50円安かったこと」

が主な要因として挙げられます

 

マーケティングぽい言葉に直せば

「新規性」と「価格競争」の2つをみたときに

「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」は優れていたとか言えるんでしょうか

 

この2つも大変重要な要素だよなぁと思いながら

ちょっと今日も電子書籍の話に繋げていこうと思うんですけど

 

「新規性」と「価格競争」はもちろん電子書籍でも重要な要素ですが

電子書籍を売る際に何が困難かというと

やはり一番は

「実物がないこと」

だと思うんですね

 

いや、実物はあるんですよ?

あるんだけどないというか

「あると断言できる価値観が社会で支配的でない」

みたいな言い方になるんですかね、よくわからないですけど

 

「1000円札を渡すと、質感を持った紙の本が代わりに渡される」

これは非常に分かりやすいですよね 身体的にも分かりやすい

これだけの厚さのものを作るのには紙もインクも労力もきっと必要だったんだろう

だから自分が対価を支払うというのも当然だろう

そういうロジックが簡単に成り立つ

 

ただここで身体感覚が軽薄になると、対価を支払うという感覚も軽薄になる

重くも軽くもない、質感も香りもない、ただデータだけがある

ネットで違法ダウンロードや無料のコンテンツが流行るのは

つまるところこの身体感覚に起因するんじゃないかと思ったりします

何かを買っても、逆に買わなくても、自分は重い思いをしたりしないわけです

 

大きなファイルをダウンロードすると

「このファイル重い」

なんて言いますけど

物理的に本当に重くなったら

みんなもっとそのファイルに対して対価を払う気になるんではないかな

なんて思ったりします

 

ニコニコ動画をあそこまで大きくした立役者でもあるドワンゴ川上量生さんが

cakesというサイトで

「コンテンツにお金を払わないのは親の躾が悪い」

なんてドぎついことを言っていましたが

僕はちょっと一理あるなと思っていて

 

僕は小学生くらいの頃、スーパーで無料の試食コーナーがあると

必ず並んでソーセージとか牛肉とか食べてたんですけど

あまりに毎回やってるもんだから

ある日母が叱ってきたんですね

「無料なのに何でいっぱい食べちゃだめなの?」

と子どもの僕は聞いたわけなんですけど

そんとき母が言った言葉が

 

「はしたないでしょ」

「そんなに食べられたら売店のおばちゃんも困るでしょ」

 

の二言で、今振り返るとまぁこの言葉に尽きるのかなぁと

 

もちろん無料でコンテンツを消費するのがいけないなんて言うつもりはなくて

嫌だったら無料で提供しなきゃいいわけですよ

売店のおばちゃんもおいしそうに目の前で肉焼かなきゃいいんですよ

 

それでもなんでおばちゃんがおいしそうに目の前で肉焼いてるかって言ったら

「美味しかったら買ってね」

って思ってるからですよね

そこを忘れちゃうとまずいよなぁと

 

「肉を食う」って目的を達成するためなら試食コーナーで良いのですが

「この美味い肉を作ってる人に頑張ってもらいたい」と思ったら

購入するという行為はその気持ちを伝える手段になるのだよなと

 

今の時代、どんな音楽もネットで検索すれば

必ずYoutube上に違法か公式か、とにかく動画が上がっていて

それを再生すれば

「そのアーティストの楽曲を聴く」という目標は達成できるわけですよね

ただ、その人たちに頑張ってもらいたいと思ったら

iTunesで曲を買ったり、ライブに行ったりするって選択肢があるわけで

 

コンテンツを提供する側に対して理解のある世の中にならないと

このネット社会はコンテンツとその奥にいる人たちを

食いつぶしてしまうのかもなぁと

そんなことを思った月曜日でした