カタリスト

思考を暗所で常温保存

プロパガンダゲーム(双葉文庫)と16年版(電子書籍)の違いは何か

 

どうも 

 

「ネット上にあるものはどれも違うと感じたから、自分で『シン・ゴジラ』の解釈をまとめた小冊子を作ったんだよ」と語るタクシー運転手のおじさんに触発され、1年ぶりにブログを再開した私です

 

嘘です

 

思えば前々回の記事は、三回目の「シン・ゴジラ」を観たあとに六丁の目のマクドナルドで二時間かけて衝動的に書いたものだったのですが、今久しぶりにブログのダッシュボードを見たら、いまだに定期的に観に来てくださる方がいるようで、ありがたいかぎりです 

(「シン・ゴジラ 考察」で検索すると5~8番目くらいに拙ブログが出てくるようで、なんかもう、申し訳ないです)

 

「2016年7月29日に『シン・ゴジラ』が劇場公開されたのに、8月1日の段階ですでに3回観ているのはおかしいんじゃないか」というツッコミがあるかもしれませんが、おかしいからあんな記事を書いているんであって、そこについてはお目こぼしいただければ幸いです

 

(その後お世話になっている先輩に「『シン・ゴジラ』何回見た?」と問われ、やや自信を覗かせながら「4回です」と答えたところ、「ああ、君はまだ『ヨジラ』なんだ」と鼻で笑われ、即座に5回目を観に行ったのは秘密です)
 

そしてやっと表題の話になるのですが、「シン・ゴジラ」を観た自分は、書きかけだった物語を完結させなくてはいけないという強い気持ちに駆られました

 

"現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ"という、メインビジュアルのフレーズには本当にさまざまな意味が込められていたのだと思うのですが、僕個人はあの映画から「虚構は現実を変えられる」というメッセージを受け取りました

 

(ちなみに、同じ時期に上映された『君の名は』は、『シン・ゴジラ』と同じく災害をテーマに扱いながら、全く対照的なつくりになっていたと感じました

あんまり言うと多方面に角が立つので端的に書くと、あの作品は「閉じたフィクション」で、具体的に言えば「いい話だったね」と言って、映画を観た次の日からは今までと同じ暮らしができる物語になっていると感じました

だからこそラストシーンは日常を感じさせる「都会の道」で、「隕石が落ちて壊滅的な被害を受けた糸守町が今後どうなるのか」については、観る側が全く考えなくても良いつくりになっているのだろうと思います)

 

すみません、話を戻します

 

映画「シン・ゴジラ」のラスト・シーンは、「今後この国がどうなるのか」を考えざるをえないものになっていました

現実と虚構には明確なリンクがあって、虚構が現実に影響するということも、庵野監督は意図されていたと思います

(この記事ではネタバレを致しませんので、詳しい考察は前々回記事をご覧ください)

 

映画の内容を反芻しながら、僕は「現実に影響を与える虚構を描きたい」と思いました 

 

これまでの記事を読んでくださっている方はご存知かもしれませんが、僕は6年前から小説を書くようになり、電子書籍サービス「Kindle」で出版していました

どうせ書くなら、読んだ後に現実の見え方が変わってしまうような、そういう迫力を持ったものを描きたい

そしてその作品は、電子書籍であることに意味があるような内容にしたい

そう思い執筆したのが「プロパガンダ・ゲーム(16年版)」でした

 

はい

やっとゴジラの話じゃなくなってきました

ここで拙著のあらすじを、ごく簡単にご紹介します

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プロパガンダゲーム」は、大手広告代理店「電央堂」の最終選考で、就活生に課せられたチーム課題の名称です

このゲームでは、学生たちは「政府チーム」「レジスタンスチーム」に分かれ、政治宣伝(プロパガンダを行っていただきます

宣伝すべき政治課題は「仮想国家・パレットが戦争を行うべきかどうか」です

勝敗は専用SNS「パレット」に接続された一般人100名の「国民投票」によって判断され、戦争賛成の票が50%を超えた場合は政府チームの勝利、戦争反対の票が50%を超えた場合はレジスタンスチームの勝利となります

「諸君には、このゲームを通じて宣伝の本質に迫ってもらいたい」

電央堂重役・渡部は学生にそう語りその場を去りましたが、果たしてその意図は…?

 

とまぁ、こんなお話となっております

 

物騒ですね

話もそうですし、出てくる単語が物騒だと思います

 

物騒にした意図はいくつかあるのですが、ひとつは先述の「電子書籍であることに意味があるような内容にしたい」という考えが影響しています

 

これまで4作の小説をKindke ダイレクトパブリッシング(KDP)で出版する中で感じたのは、「電子書籍は、極めて独立した性格を持ったメディアだ」ということです

 

KDPで出版し、amazonのWEBサイト上に書籍が並ぶためには、amazonによる審査を受ける必要があるのですが、この審査というのは「文章の内容」について制限されるようなものではなく、ページ数など「最低限の本としての品質」に関わるものを見ているものだそうです

(この審査が実際に何を見ているのかについては、今もって僕自身分からない部分があるのですが、ページについては50ページ未満でも許可されることを確認しています)

 

僕はこのKDPを「他者から何の制約も受けずに出版できる環境」と感じていて、ePUBファイルをアップロードした翌日には、そのファイル内容が「書籍」として世界中に販路を持つAmazonに売られているという現在の状況は、実際なかなか革命的な状況だよなと感じています

 

では、この革命的で制約のないメディアで何をするのが良いかと考えたときに、僕は「既存のメディアで表現できない内容を思いきり描くのが良いのではないか」と考えました

 

先に告白すると、僕は昔からインターネットで陰謀論を読むのが大好きなんですが、陰謀を信じすぎて身持ちを崩したりするのはやめよう、陰謀論の摂取は計画的に、というスタンスで人間生活を営んでいます

 

そのため、陰謀論者的に「マスメディアが自分たちに不都合なものを隠している!」と声高に主張するつもりはないのですが、「とはいえマスメディアが扱いにくい題材ってありますよね」とは考えていて、たとえば「メディア自身の問題」、具体的には「プロパガンダ」というのはそういう題材ではないか、とは考えています

 

過去にNHKの特集などで「プロパガンダ」や「メディアと権力」について取り上げられた例は確かにあるのですが、こうした特集は基本的にヒトラー総統とナチス・ドイツ政権、一歩踏み込んでもゲッペルス宣伝相を対象にしたものが多く、「過去の戦争ではこんなことがあったんです、怖いですね」というスタンスの内容が主と感じていました

 

ただ、「プロパガンダというのは第二次世界大戦で終わったトピックではなく、むしろ情報化が進んだ現代こそ更に重要性を増しているテーマだ」というのが自分自身の認識です

 

同時に、そうした状況でありながら、今の日本では「プロパガンダ」や「情報戦」について、知識を得られる機会が非常に少ないのではないか、と個人的には感じていました

 

たとえば今後、NHKのニュース9で桑子アナが「今日の特集は、現代社会で行われているプロパガンダについてです」と朗らかな声と優しい笑顔でお伝えしてくれる時代が来るかといえば果たしてどうでしょうかという懸念があり、だからこそこのテーマを、自分が電子書籍で描くというのはアリなのではないかと思いました

 

そんな気持ちを抱きながら、僕は「シン・ゴジラ」を観た一ヶ月後に「プロパガンダ・ゲーム」を脱稿し、やっと慣れてきたSigilを操作してePUBファイルを作成の上、2016年9月10日に電子書籍として出版しました

 

(本当は9月11日にバシッと出そうと思っていたのですが、Amazonで採用されている太平洋時間の計算をしくじったため、9月10日出版という形になっていることを白状します)

 

その当時は、kindle unlimitedがサービス開始から間もなかったということもあり、おかげさまで、読み放題対象商品に登録されていた拙著は多くの方の目に触れていただくことができました

 

その結果、何の期待もなくほぼノリでweb上のプロフィール欄に公開していた私のGmailアドレスにまさかのご連絡があり、双葉社さまから、「プロパガンダゲーム」を紙書籍化したいというお話をいただきました

(「お仕事はこちら⇒adress」といった表記を「来るわけないでしょ」と冷笑する向きが一分にありますが、連絡先の公開、とっても大切です)

このメール内容と、敬愛する編集者・Dさんとのこれまでのやりとりも自分にとって本当に印象深く書きたいことだらけなのですが、それを書いているとこの記事が永遠に終わらなくなるので、それはまたの機会といたします

 

と、こんな経緯があり、「プロパガンダゲーム」には、「16年版(電子書籍版)」と「双葉文庫版」の2つのバージョンが生まれました

 

ここから、ついにタイトルの話になります

(ここまでで3641字です、本当にすまないと思っています)

 

双葉文庫版(紙書籍版)と16年版(電子書籍版)の「プロパガンダゲーム」は何が違うのか 

最も大きな違いは、ゲーム中の視点が「主観」か「客観」かという点です

 

双葉文庫版は、ゲーム中は「選考に参加している特定人物」の視点で物語が進み、その人物たちの感情も詳しく描写されます

プロパガンダゲーム (双葉文庫)

プロパガンダゲーム (双葉文庫)

 

 対して16年版では、ゲーム中は「選考を観ている人物」の俯瞰視点で物語が展開し、ゲームに参加している誰の心中も分からない状態となっています

プロパガンダ・ゲーム(16年版)

プロパガンダ・ゲーム(16年版)

 

 そして、この観点の違いによって、それぞれの物語は違った結末を迎えます 

 

つまり、16年版では読者は観測者であるため、「ゲームの観測者」として最後を迎えますが、双葉文庫版では、読者は参加者であるため、「ゲームの参加者」としてのラストシーンを迎えるということです

 

 こうした事情から、双葉文庫版は16年版(電子書籍版)からラストシーンに関する1万字ほどの加筆があり、視点の関係で全面的な改稿が行われています

 

作品の読み方については、作者があまりどうこういうものではないと思っているのでごく簡単にポイントを書きますと、「16年版から双葉文庫版」という読み方をすると、俯瞰で見ていた登場人物がその当時何を考えていたかが分かり、「双葉文庫版から16年版」という読み方をすると、客観的なゲームの進行状況と、改稿前の原文が分かるという状況になっております

 

なお、「16年版」については相当好き放題に書いたことを自負しているのですが、双葉社さまは本当に寛容で、出版にあたって元の電子書籍版を取り下げることを要求されたりすることも一切なく、改稿時も全面的に元の内容を尊重していただいております

 

プロパガンダゲーム」について、長々と書いてまいりました

僕からお伝えしたいことは、「このゲームを広めてほしい」ということです

 

この物語は、「三段階の入れ子構造」を意識して制作しています

はじめの箱は「作中のゲーム」

次の箱は「作中の現実」

そして、3つめの箱が「私たちが生きる現実」です

 

読んでいただいた方は、意味を理解していただけるかもしれません

つまり僕は、「現実対虚構」の第二ラウンドをやりたくてこの物語を書いています

 

 

 

結局、シン・ゴジラの話になってしまいました

純粋に2つの作品の違いを知りたかった方には大変冗長な文章だったかと思います

とても深く反省しています

 

ということで、「プロパガンダゲーム」双葉文庫版と16年版の違いを説明させていただきました

そもそも、この両者の非常に単純な違いとして「紙書籍と電子書籍」というものがあるのですが、ここについては、前回の記事で記載したこともあり、今回はあえて説明を省略しました

 

「紙か電子か」議論について僕からお伝えしたことはひとつで、「電子書籍は紙書籍の敵ではない」ということです

 

電子メディアには「みんなとつながっている」という感覚があり、紙メディアには「メディアと、わたしと、ふたりっきり(『ハーモニー』伊藤計劃著)」という感覚がある

特徴が違いますから、本質的には競合ではないというのが僕の考えで、この考えは今後も変わらないと思います

 

ですので「プロパガンダゲーム(双葉文庫版)」「プロパガンダゲーム(16年版)」、どちらを読んでいただいても作者は歓喜します

 

メディアを超えて、このゲームが多くの方のもとに届けば幸いです