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思考を暗所で常温保存

【ネタバレ有】『TENET』(テネット)感想と考察

どうも

 

最近、「自分の車の走行距離」と「自分のブログのアクセス数」に奇妙なリンクがあることに気づいた私です

 

少し前に自分の車の走行距離が10万キロを超えたんですけれども、そのタイミングで拙ブログのアクセス数もなぜか10万件を超えまして

 

「なんだこれは、陰謀か?」

 

と思い、ブログを再開することといたしました

 

 

 

 

嘘です

  

 

実際のところ、このブログが突然再開するときは「何か面白い映画を見つけたとき」か「自分の本が出るとき」なんですけれども、今回の場合は両方なんですね

 

ただ本の話は蛇足になるので、この記事では全力で『TENET』の話をしていこうと思います

 

※ここからは2020年9月18日公開となりました、クリストファー・ノーラン監督『TENET』の感想と考察をネタバレ全開でお送りしていきます

まだご覧になっていない方は、くれぐれもご注意ください

 

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『TENET』はノーラン版007?

さて世間では「陰謀といえばCIA」と相場が決まっておるわけですけれども、『TENET』はCIAと旧ソ連関係者の対立を軸に、主人公が第三次世界大戦を防ぐために戦うという、いまどき珍しいゴリゴリのスパイ・陰謀映画です

 

設定だけ聞くと「007かな?」と見まがうような内容でして、ノーラン監督は過去に『007』の大ファンで新シリーズの監督をやりたいといった発言もしておりますので、実は『TENET』は、膨大な予算とノーラン監督の趣味をぶち込んだ『同人版007』という言い方も、あるいはできるのかもしれません

 

 実際、今回の悪役(ヴィラン)となるアンドレイ・セイタ―は旧ソ連にルーツを持つ武器商人でして、名前や見た目含めスラブ系の特徴をふんだんに持っております

そんなソ連系の人物をここまで露悪的に描くのもいまどきどうなんだという気持ちもありつつ、「やっぱソ連関わってた方がスパイ映画は盛り上がるじゃん!」というノーラン監督の心の声が聞こえてきそうな、大変分かりやすい悪役が登場するのがこの『TENET』でございます

 ただ、分かりやすいのはこの悪役のセイターくらいのもので、他の全編がめちゃくちゃ難解なのが『TENET』の特徴とも言えるかと思います

『TENET』を難解にしている「逆行」について 

『TENET』を難解にしている最大の要因は、時間を遡る「逆行」現象かと思われます

一見、荒唐無稽なこの現象ですが、少し物理的な話をしますと、この世界にある四つの力(電磁気力、強い力、弱い力、重力)のうち、重力以外は正逆( 簡単に言うとこういう ⇄)二つの方向性を持っており、単方向と言われてきた重力についても、やっぱり打ち消す力(逆の力)があるんじゃないの、といったことが物理学者の口からも囁かれております

参考:残された謎 宇宙定数の正体を追え(日経サイエンス)

であれば、「時間」も正逆(⇄)二つの方向性があってもおかしくないんじゃないの、というのが恐らくこの映画で描写された「逆行」の根底にある考えで、『インターステラー』でガチの物理学者キップ・ソーンに監修を依頼した過去のあるノーラン監督は、そのあたりのこともガチで考えてこの設定を作ったのではないかと思われます

参考: マクスウェルの悪魔とは?(京都大学工学部 電気電子工学)

で、作中誰がどのように「逆行」して時間軸を移動していたのかについては、趣味独学映像クリエイターの「たてはま」さんがすばらしい図を制作されており、最も難解であろうカーチェイスのシーンについても丁寧に動画で解説をされているので、「何が起こっているかよく分からんかった…」という方は、ぜひ以下のたてはまさんの動画をご覧ください

https://twitter.com/cgbeginner/status/1307501473358462976?s=20

 

 

 描写されている内容についてはすでにしっかり解説してくださっている方がいらっしゃるので、じゃあこの記事は何をやるかということなんですけれども、基本的には、「描かれていないこと」、そして「描かれているものの極めて分かりづらいこと」について考察を加えていきます

具体的には、

1.「TENET」とは何か

2.「主役」とは誰だったのか

3.「ある人物」に関する噂

この三点について、深く考察していきたいと思います

 

1.『TENET』とは何か

まず、『TENET』は説明嫌いのノーラン監督作品の中でも群を抜いて説明が少ない映画であると思うのですが、作品中に何度も登場しながら、結局何なのかよく分からない最大の存在が『TENET』という単語そのものではないかと思われます

 

ネタバレ全開と書きましたので、ここからはもうクライマックスに関わる話をどんどんしていきますが、『TENET』は作品中では「主義」と訳され、終盤では、視点人物である「名もなき男」が将来作る「組織の名前」であることも示されました

 

でも組織の名前が「主義」って、正直意味わかんないですよね

 

だいたい、組織というのは何かの主義を持った、またはある主義を目指す人たちの集まりであって、名前にはその組織の「主義」を表す単語が使われるのが普通です

たとえば『幻影旅団』なら「幻のように社会から姿を隠匿しながらさすらう」といったコンセプトが感じられますし、『ギニュー特戦隊』なら「ギニュー様を中心に奇特な人たちが集まって戦ってます」といったことがちゃんと伝わってくるわけです

 

じゃあ、この組織が持つ「主義」、目指すものとは何なのか?

ここからは私の解釈ですが、彼らの組織名をより詳しく説明すると、『TENET』のような状態を目指している組織と言えるのではないかと考えています

『TENET』のような状態とは?

言葉で説明するとややこしくなりますので、ここでは図に登場していただきましょう

こちらが、『TENET』のような状態の図です

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出典: Wikipedia『SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS 』

私もこの映画を観て初めて知ったんですけれども、こちらはおそらく現存する中で最古の回文「SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS」のワード・スクエアです

 

SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS.

これはラテン語で「農夫のアレポ氏は馬鋤きを曳いて仕事をする」という意味の文章であります

この回文のすごいところは、前から読んでも後ろから読んでも同じになることは勿論、上記のワード・パズルのように並べると、縦に読んでも横に読んでも「SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS」と読めるということです

いわば「キング・オブ・回文」ですね

 

そして図を見ていただければお分かりの通り、 『TENET』はこの回文の中核となる単語です

さらに勘の良い方はすでにお気づきかもしれません

このワード・パズルに登場する単語、全部映画の中に出てきていたんですね

 

SATOR…悪役、アンドレイ・セイタ―の苗字
AREPOゴヤの贋作を描いた画家の名前
TENET…「名もなき男」が立ち上げる組織名
OPERA…冒頭のテロ発生現場、オペラハウス
ROTAS…「フリーポーター」運営会社の名前

 

よって、この映画で何度も登場する『TENET』という単語は、この回文の一部、さらに言えば「回文状態」を指すと捉えるのが妥当ではないかと思われます

このような要素から私は、この映画の視点人物である「名もなき男」は、「世界が『回文状態』であり続けること」を目指してこの名前を組織につけたのではないかと思いました

 

世界が「回文状態」であり続けるとはどういうことか?

この物語の悪役(ヴィラン)であるセイターは、未来人の「世界全体を逆行させる」という野望の駒として動いていました

作中では「人物」や「物体」が世界を逆行することはあっても、世界自体が逆行する現象は最後まで起きませんでした

世界全体が逆行した場合、物理法則すべてが『逆行』するため、『順行』の物理法則でのみ息ができる人類は、すべて呼吸困難に陥り、たちどころに死滅します

未来人は環境が大きく破壊された地球で「順行」の時間軸のまま暮らし続けることに限界を感じ、世界の時間軸自体を「逆行」させ、その逆行した世界で生きていこうと考えたわけです

この野望が達成されてしまえば、「名もなき男」をはじめ、今までこの世界で生きてきた人々は不可逆的に消滅し、二度と「順行」も「逆行」もできなくなります

だからこそ、「名もなき男」はこの「一方的な未来」と戦うための組織を、「回文状態」の象徴である『TENET』と名付けたのではないかと思います

改めてこの映画のタイトルを日本語に訳すとすれば、恐らく『回文世界』などが適切ではないでしょうか(書いてから、実際中国ではこんな感じの名前で公開されてそうだなと思いました )

 

2.『主役』とは誰だったのか

次に考えていきたいのは、「主役」についてです

ごく素直に考えれば、この映画の「主役」はCIAの元諜報員である腕利きのスパイ「名もなき男」になりますし、ご丁寧にラストシーンでは彼自身が「俺が主役だ」という旨の発言をするのですが、あのシーンに、なんともいえない違和感を覚えた方は多いのではないでしょうか

というのも、この「名もなき男」さん、たしかにずっと物語の中心にはいるのですが、どこか空虚な感じがするというか、主体性がない感じがするわけです

名前も「名もなき男」ということで、一度も名乗ることも、自分の名前が誰かに叫ばれることもありません

この人物の役割にあえて名前をつけるとすれば、私は「観測者」が適切なのではないかと思いました

キャプション的には、「観測者(※「主役」の一人)」みたいな感じですね

 

映画内ではわざとミスリードさせるようなタイミングで単語が登場するのですが、この作品世界では、パラレルワールドというものは存在せず、主人公は「決定論」的な世界を生きています

別の言い方をすれば、「名もなき男」が生きている世界はたった一つで、自分の行動の結果によって世界が分岐したりは決してしなかったということです

この「名もなき男」に感じる「主体性のなさ」は、おそらくこの設定が原因なんですね

つまりどれだけ頑張ろうとも頑張るまいとも、この「名もなき男」は、すでに観測した世界をなぞることが分かっている

だからなのか、普通の映画の「主役」のような、「俺が世界をなんとかしてやる!」といった熱がやや弱い感じがしてしまうわけです

(もちろん、本人は一生懸命やっていますし、「観測した世界をなぞっている」だけなのにここまで迫力ある見せ方をできるノーラン監督は、やはり天才だとも思います)

では、この映画の本来的な意味での「主役」は誰だったのかというと、私はやはり、ニールこそがその名にふさわしいのではないかと考えます

私が「ニール」を「主役」だと思う理由

映画『TENET』は「名もなき男」を唯一の視点人物に物語が語られるため、「名もなき男」と関わらないときに誰が何をしていたのかが分かりにくいのですが、その状況下においても、ニールは「主役」と呼ぶにふさわしいレベルのことをやっています

 

まずは冒頭、オペラハウスのテロリスト襲撃の場面

「名もなき男」は、自身の正体が怪しまれ絶体絶命に陥ったところを、「逆行」弾を使うガスマスクの男に救われます

その男の鞄には、あの五円玉のようなチャームが……

実はお互いに自己紹介をする前から、「名もなき男」はニールに命を救われていたんですね

この場面のニールは、武装組織『TENET』のリーダーとなった「名もなき男」と未来で出会い、その指示を受けて長い「逆行」の旅を続けた末、ついに「名もなき男」の若い頃に出会い、その窮地を助けた状況と思われます

『TENET』の世界でできることはあくまで時間の「逆行」なので、例えば十年前に戻ろうと思うと、例の回転ドアに入って十年「逆行」生活を続ける必要がある訳ですね

組織の助けはあったでしょうが、その間のニールの暮らしはつらく厳しいものだったのではないでしょうか

生半可ではない「名もなき男」とニールの関係

そして、組織『TENET』の力(おそらく回転ドア装備の船)を借り、「順行」に戻ったニールは、「名もなき男」と出会い、共に任務をこなしていきます

「任務中は酒を呑まない(ダイエットコークを飲む)」ことを知っていたのは、過去にそれを知る程度には「名もなき男」と親密だったということの表れと思われます

諸々あった後、『TENET』を初めて知った(ふりをした)ニールは、「名もなき男」に「僕は殺される?」と尋ねます

驚くのは、この質問に「俺次第だ」と答えた「名もなき男」に対して、ニールが「それならいいや」と答えることです

「名もなき男」はこの回答を笑って受け流すのですが、普通、自分の生死が相手次第で決まると言われ、「それならいい」とまで言えるでしょうか?

きっとニールは、この「名もなき男」のことを、未来の世界で本当に慕っていたのだろうと思います

あまりにあっけなく描写されるクライマックス

この『TENET』という作品、全体的にものすごいことをやってのけている映画だと思うのですが、その中でも私が一番の「凄味」を感じたのが、ニールの最期です

私は、あのシークエンスがこの物語のクライマックスだと勝手に認識しているのですが、この「ニールの最期」のシーン、どこがすごいかというと、初見では一体何が起きたのかすら分からないほど一瞬で描写されていて、後から、どんどんと、その一挙手一投足の意味の重みが伝わってくるということです

 

正直、あのシーンについて、一回目の鑑賞の際はすべてが突然に起きるので「誰かが鍵を開けてくれて、それからすぐ撃たれた」くらいにしか認識できず、最後の会話でニールのチャームが大写しになることで「撃たれたのはニールだった」と気づくのがやっとでした

ただ、二回目の観賞で分かったのは、ニールが最期に取った行動は、初めに受けた印象よりもはるかに重く、悲壮な決意のこもったものだったということです

 

あのシークエンスを注意深く見ると、「順行」視点の「名もなき男」からは、このような光景が目に映っていたことが分かります

 

(「名もなき男」視点)

青い目印を戦闘服につけた、マスクの男が倒れている

マスクの男が突然起き上がり、扉の前で撃たれる

マスクの男が扉を開ける

アイヴスと共に扉をくぐって柵の内側に入る

格闘の末、ボルコフを穴に落とす

 

スタルスク12の戦闘が終わった後、三人で話すシーンでアイヴスがニールに「鍵を開けるのが得意」だとわざわざ言うので、初見だとマスクの男(ニール)はどうしても「鍵を開けた」ように見え、ノーラン監督もわざとそう誤解されるような仕掛けにしているようなんですね

でも実際は、そうではなかったんです

 

ニールは、スタルスク12内の回転ドアを使い、「逆行」状態で地下に向かっています

そのため、ニールの行動はすべて「逆」に追っていかなくてはいけません

つまり、ニールの眼に映った実際の光景と彼の行動は、こうなります

 

(ニール視点)

穴からあがってきたボルコフと、「名もなき男」が格闘になる

「名もなき男」とアイヴスが扉をくぐって柵の外側に出ていく

自らの手で扉に鍵をかける

ボルコフと「名もなき男」の間に立つ

銃弾に倒れる

 

つまり、わずか先の未来で「名もなき男」がボルコフを倒す光景を観たニールは、咄嗟にボルコフと自分だけをあの空間に隔離し、身を挺して、世界を救う可能性のある「名もなき男」を庇う決断をした

これが、ニールの本当の最期だったのです

 

普通の映画監督であれば、スローモーションにして、登場人物にニールの名前を叫ばせ、感動的な音楽をかけてしまうようなシーンです

それをノーラン監督は、ほとんど事故のようなあの一瞬で描写してきたのです

 

ここまで描けば、きっとお分かりいただけるかと思います

ニールは、一度ならず二度も、「名もなき男」の命を救っていた

それも一度は、最大級の自己犠牲を伴ってです

このニールほど「主役」と呼ぶにふさわしい人物が、他にいるでしょうか

 

3.ある人物に関する噂

さて

気づけば7000字近くなりましたこの記事も、最後の項目となりました

 

「ある人物」とは誰か?

お察しの良い方であればすでにお気づきのことかと思います

 

実は海外のSNSでは、公開直後から「ニール」についてある噂が流れていました

それは、ニールはキャットの息子、「マックス」の成長した姿だというものです

 

「ニール=マックス」説 【根拠①】名前の綴り

この「ニール=マックス」説について、はじめに根拠として挙げられていたのが名前の綴りです

 

「Max(マックス)」という愛称は、通常、ヨーロッパでは「Maximilien(マクシミリアン)」という名前に対して多く使われます

この「Maximilien(マクシミリアン)の綴りを後ろから遡ると……「Neil(ニール)」

つまり、「Maximilien(マクシミリアン)が世界を「逆行」する際に使っているコードネームが「Neil(ニール)」なのではないか、というわけです

 

この噂について、正直なところ、私ははじめ「うさんくさい」と思っていました

どことなく都市伝説っぽいというか、大昔に2ちゃんねるで流行った「実は『となりのトトロ』のメイちゃんは死んでる」的なコピペと同じ匂いを感じたからです

(※メイちゃん生きてます 三鷹の森で続きのアニメが見れますのでぜひ見てください)

 

しかし、この説を頭に入れてから二度目の観賞へ向かった結果、私はなんだか、とんでもない世界の入口を見つけてしまった気持ちになりました

 

「ニール=マックス」説 【根拠②】登場人物の反応

 先述したように、私は「ニール=マックス」説には懐疑的で、いちばんの理由は「もしそうだったらニールのキャットに対する反応が薄すぎるだろ」というものでした

一回目見た印象では、ニールはキャットに対して特別変わった反応を見せた覚えはなく、おそらく女手一つで育ててくれた実の母に、そんな塩対応をするわけないだろうと思ったのです

しかし結論から言いますと、ニールの劇中の反応からは、「ニール=マックス」説を否定する材料は何も出て来ませんでした

それどころか、よく見ると怪しい反応がいくつもあるのです

 

たとえば、ニールは腹を撃たれ、「逆行」の話を聞かされ不安になったキャットから「私と息子はどうなるの」という旨のことを問われます

これに対してニールは、「まずは物理学の講義からはじめようか」と答えます

他にも、ニールがキャットから息子について問われるシーンは何度かあるのですが、そのたびに、ニールはうまくはぐらかし、一度もキャットの息子について言及しません

 

その上で、最も重要に思えるのが、「名もなき男」の反応です

「名もなき男」は作戦を伝えたキャットから「息子の最期に(父と)ケンカをしているところなんか見せたくない」という旨のことを言われます

この言葉に対して「名もなき男」は「最期じゃないさ」と答え、その後、画面の奥に目をやります

前のシーンからのつながりを見ると、その視線の先にいる人物が、ニールなのです

 

「ニール=マックス」説 【根拠③】農耕神サトゥルヌス

そして二回目の観賞を終え、興奮冷めやらぬままこの記事でも紹介いたしましたWikipediaの「SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS」の項目を読んでいたところ、また気になる描写を見つけました

「SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS」という回文は、"「農夫のアレポ氏は馬鋤きを曳いて仕事をする」という意味に翻訳できるが、SATORを農夫ではなく農耕神サトゥルヌス、AREPOを名前ではなく「大地の産物」と解釈して二重の意味を持たせていると取ることもできる”のだそうです

農耕神サトゥルヌスについて調べてみると、作中にも贋作が登場していたゴヤの別作品『我が子を食らうサトゥルヌス』のWikipedia記事がヒットしました(大変怖い絵ですので、観るときは覚悟を決めましょう)

なんでも"サトゥルヌス(ギリシア神話のクロノスに相当)は将来、自分の子に殺されるという予言に恐れを抱き5人の子を次々に呑み込んでいったという伝承"があるのだそうです

 セイタ―(SATOR)は、ニールのスタルスク12での活躍もあり、「時を支配する神」になりそこない、命を落とすことになりました

こうした状況からも、ニール=マックス(Max)という説は、それなりに信憑が高いように思われます

 

「ニール=マックス」説 【根拠④】マクスウェルの悪魔

これも先にご紹介させていただいた「たてはま」さんの動画で知った情報になるのですが、『TENET』の世界観はマクスウェルの悪魔と言われる思考実験に影響を受けており、そのことは研究室に一瞬映る「ホワイトボード」の描写からも裏付けられています

youtu.be

マクスウェルの悪魔』は本気で説明すると大変ややこしいお話ですので、詳細はまた上記のたてはまさんの動画をご覧いただくとして、ごく簡単に言えば「必ず増大するとされていたエントロピーに、減少させる方法があるのではないか」という思考実験です

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出典: 『マクスウェルの悪魔』(Wikipedia

この思考実験の画像、ご覧いただくとお気づきになるかと思いますが、キャットが「逆光弾」で撃たれたあの部屋の構造ととてもよく似ていてますよね

こうしたことからも、映画『TENET』が思考実験「マクスウェルの悪魔」に影響を受けていることは、ほぼ確実といえるかと思います

 

その上で、なんでこんな思考実験が「ニール=マックス説」と関わるんだというお話ですが、当然といえば当然、この思考実験を考えた物理学者の名前が、マクスウェル(Maxwellなんですね

『TENET』には一人だけ、物理学の修士号を持った人物が登場していましたよね

そう、我らがニールです

これは根拠としてはやや薄弱かもしれませんが、あのノーラン監督が、何の意味もなく「マックス」という単語と「ニール」をつなげるような符合を残すでしょうか?

「ニール=マックス」説 おまけ

ということで、ここまで見てきた「ニール=マックス」説ですが、「年齢的にどうなの?」といった意見が一部にはあるようです

これは個人的にはまったく違和感はないと思っております

具体的には、マックスが修士号を取得した後、映画冒頭の時間軸に戻ってきてニールの年齢になるのかを検証してみましょう

マックスが修士号を取得した年齢を20代前半として、映画ラストの時間からは約10年程度の歳月が経過します(マックスは名門校に通っていますので、もう少し早く取得した可能性もあるかもしれません)

修士号取得後に「名もなき男」から声をかけられ、『TENET』に所属、回転ドアをくぐって時代を逆行し、オペラハウスへと向かうと、また約10年の歳月が経過

この場合、ニールの年齢は34歳~40歳くらいであれば問題ありません

今回ニールを好演した俳優、ロバート・パティンソンの実年齢は34歳です

ということで、年齢的にも時系列的にもそれほど無理は生じないと思われます

 

『TENET』は二回目以降が面白い

さて

ここまで延々と記してまいりました『TENET』感想と考察記事でございますけれども、お伝えしたいことはシンプルです

『TENET』は最低二回観ましょう

一回ですべての内容を理解できたら、そのほうがどうかしている

そんな映画でございます 

個人的には、『シン・ゴジラ』以来のドハマりした映画となりました

この記事が『TENET』を多くの人にお楽しみいただく一助となれば幸いでございます

「ウィザードグラス」は「プロパガンダゲーム」の続編なのか問題

どうも

 

ついに更新ペースが(一応)目標にしていた「年に一度」を下回ってしまったので
「『風の谷のナウシカ』がテレビ放送された年は更新する」
といった別の基準を設けてブログを更新しようと思っている私です

 

TRICK」ファンの方々はよくご承知の事実かもしれませんが、
風の谷のナウシカ」は金曜ロードショーで最も放送された回数の多い映画で、
1985年から現在までに18回地上波で放映されており、
このブログでの記事は今日でやっと17本目なので、もう何もかもが負けています
(地上波放送13回だった「ダイ・ハード」には辛くも勝利しました)

 

ナウシカが約2年に1度の頻度で放映されていること、自分のものぐさぶりを考えると、
今後もデッドヒートが続くことが予測されますが、ご笑覧いただければ幸いです

 

さて、前置きが長くなりましたが今日は表題の件に関してです

 

大仰に「問題」などとつけましたが、おそらくこの議題に触れているのは現状この世界で私だけですので、意味が分からなくても何も気に病むことはありませんし、おかしいのは常に私の方なのでぜひ安心していただきたいです

 

記事のタイトルですが、これは

「実はこのブログを始めて今日に至るまでの6年間、本当にいろいろなことがあった結果小説を出版させていただくことになり、約1年前に『プロパガンダゲーム』という物騒な名前の小説を出したのですが、実は最近次回作にあたる小説を出すことになりましたのでその話をさせてください」

という意味です

 

青森の方が

「どさ」
「ゆさ」

と言葉を交わすと

「貴方は何処に行かれるのですか?」
「これから銭湯へ向かうところです」

という意味になるのとおおよそ同じようなものだと考えていただければ大丈夫です

 

ということで、前置きが長くなりましたが、2019年3月14日に発売となりました2作目の商業出版『ウィザードグラス』のあらすじをご紹介します 

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「ウィザードグラス」は本編の主人公である大学生、高峯陽輝(たかみね・はるき)が、行方不明となっている兄の天瀬那月(あませ・なつき)から受け取ったスマートグラスの名称です

この眼鏡型の装置は、装着するだけで「他人の検索履歴を閲覧することができる」という不気味な能力を持っており、同封されていたタブレットには「周囲にある携帯端末の位置と、ログインしているSNSアカウント名を表示する地図アプリ」がインストールされています

「なぜ、兄の那月はこんなものを自分の下に送ってきたのか」
「どうして、こんな装置がこの世界に存在するのか」

そんな疑問を抱きながら、通学電車やキャンパスなど、日常生活で「ウィザードグラス」を利用するうちに、陽輝は次第に予想外の事件へと巻き込まれていき――

 

とまぁ、こんなお話となっております

 

物騒ですね

今回も物騒です

 

みなさまが今お持ちのスマートフォン、「検索履歴を全て見せてくれ」と突然言われたとして、すぐに全部見せられる方、どのくらいおられますか?

ええ、シークレットウインドウとかプライベートブラウザとかそういうのも全部です

そうですね、僕は無理です

 

検索履歴というのは、自分が「知りたい」と思っている欲求に関わる言葉が詰まったものなので、この情報を「知っている」あるいは「知られている」というだけで、現実は全く違った姿を見せ始めます

その別世界を見始めた陽輝は、どんな出来事に巻き込まれていくのか?

これが、今回の物語の骨子です

 

そしてやっとですね、やっとここからタイトルにあった疑問に触れていきます

プロパガンダゲーム (双葉文庫)

プロパガンダゲーム (双葉文庫)

 

 前作をお読みいただいた方はすでにお気づきの通り、今作「ウィザードグラス」は、前作「プロパガンダゲーム」とは主人公が異なります

そのため、純粋な続編かというとやや異なるのですが、「ウィザードグラス」は「プロパガンダゲーム」の1年後の世界を舞台にしているということで、間接的な繋がりが存在しています

ウィザードグラス (双葉文庫)

ウィザードグラス (双葉文庫)

 

作中に登場する企業名からお分かりいただける通り、上記2作は私たちが住んでいるこの世界とは似て非なる世界を舞台にしておるのですが、その世界はいわゆる「パラレルワールド」的なモノを想定しており、私たちが住んでいる世界で起きたことに性質の似た出来事が、あちらの作品世界では1~3年以内に発生しているという設定で執筆しています

上記をふまえ、
プロパガンダゲーム」は2015年
「ウィザードグラス」は2016年

をそれぞれ舞台にしており、これは知らずとも本筋の謎は解明できるのですが、作品世界における誰が我々の世界における誰なのか、みたいなことは気を配りつつ書かせていただいております

プロパガンダゲーム」では大手広告代理店「電央堂」の最終試験が舞台となっており、屋内の密室空間での情報戦が全編通してのテーマでしたが、今回は屋外がメインの舞台となるため、前作では事情があってできなかった性質の「情報戦」を描いています

 

他にも、前回出てきた石川さんの親族が今回出てきている等々、事情があり本編で触れられなかった設定はいくつかあるのですが、その中でも元々冒頭の1ページ目の候補となっていた脚注を以下にご紹介して、今日の記事を締め括らせていただきます

 

‣wizard

【音節】wiz・ard 【発音記号・読み方】wízɚd‐/zəd/

  1. 魔法使い。主に男性を指すことが多い。
  2. ウィザード。ユーザーに必要な情報を適宜示しながら誘導するソフトウエアの機能。
  3. (俗語)優れたハッキング能力をもつ人。
出典: Gloobe英和翻訳

 

2019年3月14日発売「ウィザードグラス」、拙書ですが、多くの方に楽しんでいただけることを心より祈っております

 

※太古の昔に存在したテキストサイト文化を中学生時代から愛好していたこともあり、私は「SEO」という概念が控えめに言って大嫌いなのですが、「SEO対策をやっている記事に検索順位で負けたくない」という子どもじみた対抗意識から、この記事も前記事も検索に最適化しキーワードを入れ込んだ上28~32字でタイトルを構成しているのは秘密です

プロパガンダゲーム(双葉文庫)と16年版(電子書籍)の違いは何か

 

どうも 

 

「ネット上にあるものはどれも違うと感じたから、自分で『シン・ゴジラ』の解釈をまとめた小冊子を作ったんだよ」と語るタクシー運転手のおじさんに触発され、1年ぶりにブログを再開した私です

 

嘘です

 

思えば前々回の記事は、三回目の「シン・ゴジラ」を観たあとに六丁の目のマクドナルドで二時間かけて衝動的に書いたものだったのですが、今久しぶりにブログのダッシュボードを見たら、いまだに定期的に観に来てくださる方がいるようで、ありがたいかぎりです 

(「シン・ゴジラ 考察」で検索すると5~8番目くらいに拙ブログが出てくるようで、なんかもう、申し訳ないです)

 

「2016年7月29日に『シン・ゴジラ』が劇場公開されたのに、8月1日の段階ですでに3回観ているのはおかしいんじゃないか」というツッコミがあるかもしれませんが、おかしいからあんな記事を書いているんであって、そこについてはお目こぼしいただければ幸いです

 

(その後お世話になっている先輩に「『シン・ゴジラ』何回見た?」と問われ、やや自信を覗かせながら「4回です」と答えたところ、「ああ、君はまだ『ヨジラ』なんだ」と鼻で笑われ、即座に5回目を観に行ったのは秘密です)
 

そしてやっと表題の話になるのですが、「シン・ゴジラ」を観た自分は、書きかけだった物語を完結させなくてはいけないという強い気持ちに駆られました

 

"現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ"という、メインビジュアルのフレーズには本当にさまざまな意味が込められていたのだと思うのですが、僕個人はあの映画から「虚構は現実を変えられる」というメッセージを受け取りました

 

(ちなみに、同じ時期に上映された『君の名は』は、『シン・ゴジラ』と同じく災害をテーマに扱いながら、全く対照的なつくりになっていたと感じました

あんまり言うと多方面に角が立つので端的に書くと、あの作品は「閉じたフィクション」で、具体的に言えば「いい話だったね」と言って、映画を観た次の日からは今までと同じ暮らしができる物語になっていると感じました

だからこそラストシーンは日常を感じさせる「都会の道」で、「隕石が落ちて壊滅的な被害を受けた糸守町が今後どうなるのか」については、観る側が全く考えなくても良いつくりになっているのだろうと思います)

 

すみません、話を戻します

 

映画「シン・ゴジラ」のラスト・シーンは、「今後この国がどうなるのか」を考えざるをえないものになっていました

現実と虚構には明確なリンクがあって、虚構が現実に影響するということも、庵野監督は意図されていたと思います

(この記事ではネタバレを致しませんので、詳しい考察は前々回記事をご覧ください)

 

映画の内容を反芻しながら、僕は「現実に影響を与える虚構を描きたい」と思いました 

 

これまでの記事を読んでくださっている方はご存知かもしれませんが、僕は6年前から小説を書くようになり、電子書籍サービス「Kindle」で出版していました

どうせ書くなら、読んだ後に現実の見え方が変わってしまうような、そういう迫力を持ったものを描きたい

そしてその作品は、電子書籍であることに意味があるような内容にしたい

そう思い執筆したのが「プロパガンダ・ゲーム(16年版)」でした

 

はい

やっとゴジラの話じゃなくなってきました

ここで拙著のあらすじを、ごく簡単にご紹介します

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プロパガンダゲーム」は、大手広告代理店「電央堂」の最終選考で、就活生に課せられたチーム課題の名称です

このゲームでは、学生たちは「政府チーム」「レジスタンスチーム」に分かれ、政治宣伝(プロパガンダを行っていただきます

宣伝すべき政治課題は「仮想国家・パレットが戦争を行うべきかどうか」です

勝敗は専用SNS「パレット」に接続された一般人100名の「国民投票」によって判断され、戦争賛成の票が50%を超えた場合は政府チームの勝利、戦争反対の票が50%を超えた場合はレジスタンスチームの勝利となります

「諸君には、このゲームを通じて宣伝の本質に迫ってもらいたい」

電央堂重役・渡部は学生にそう語りその場を去りましたが、果たしてその意図は…?

 

とまぁ、こんなお話となっております

 

物騒ですね

話もそうですし、出てくる単語が物騒だと思います

 

物騒にした意図はいくつかあるのですが、ひとつは先述の「電子書籍であることに意味があるような内容にしたい」という考えが影響しています

 

これまで4作の小説をKindke ダイレクトパブリッシング(KDP)で出版する中で感じたのは、「電子書籍は、極めて独立した性格を持ったメディアだ」ということです

 

KDPで出版し、amazonのWEBサイト上に書籍が並ぶためには、amazonによる審査を受ける必要があるのですが、この審査というのは「文章の内容」について制限されるようなものではなく、ページ数など「最低限の本としての品質」に関わるものを見ているものだそうです

(この審査が実際に何を見ているのかについては、今もって僕自身分からない部分があるのですが、ページについては50ページ未満でも許可されることを確認しています)

 

僕はこのKDPを「他者から何の制約も受けずに出版できる環境」と感じていて、ePUBファイルをアップロードした翌日には、そのファイル内容が「書籍」として世界中に販路を持つAmazonに売られているという現在の状況は、実際なかなか革命的な状況だよなと感じています

 

では、この革命的で制約のないメディアで何をするのが良いかと考えたときに、僕は「既存のメディアで表現できない内容を思いきり描くのが良いのではないか」と考えました

 

先に告白すると、僕は昔からインターネットで陰謀論を読むのが大好きなんですが、陰謀を信じすぎて身持ちを崩したりするのはやめよう、陰謀論の摂取は計画的に、というスタンスで人間生活を営んでいます

 

そのため、陰謀論者的に「マスメディアが自分たちに不都合なものを隠している!」と声高に主張するつもりはないのですが、「とはいえマスメディアが扱いにくい題材ってありますよね」とは考えていて、たとえば「メディア自身の問題」、具体的には「プロパガンダ」というのはそういう題材ではないか、とは考えています

 

過去にNHKの特集などで「プロパガンダ」や「メディアと権力」について取り上げられた例は確かにあるのですが、こうした特集は基本的にヒトラー総統とナチス・ドイツ政権、一歩踏み込んでもゲッペルス宣伝相を対象にしたものが多く、「過去の戦争ではこんなことがあったんです、怖いですね」というスタンスの内容が主と感じていました

 

ただ、「プロパガンダというのは第二次世界大戦で終わったトピックではなく、むしろ情報化が進んだ現代こそ更に重要性を増しているテーマだ」というのが自分自身の認識です

 

同時に、そうした状況でありながら、今の日本では「プロパガンダ」や「情報戦」について、知識を得られる機会が非常に少ないのではないか、と個人的には感じていました

 

たとえば今後、NHKのニュース9で桑子アナが「今日の特集は、現代社会で行われているプロパガンダについてです」と朗らかな声と優しい笑顔でお伝えしてくれる時代が来るかといえば果たしてどうでしょうかという懸念があり、だからこそこのテーマを、自分が電子書籍で描くというのはアリなのではないかと思いました

 

そんな気持ちを抱きながら、僕は「シン・ゴジラ」を観た一ヶ月後に「プロパガンダ・ゲーム」を脱稿し、やっと慣れてきたSigilを操作してePUBファイルを作成の上、2016年9月10日に電子書籍として出版しました

 

(本当は9月11日にバシッと出そうと思っていたのですが、Amazonで採用されている太平洋時間の計算をしくじったため、9月10日出版という形になっていることを白状します)

 

その当時は、kindle unlimitedがサービス開始から間もなかったということもあり、おかげさまで、読み放題対象商品に登録されていた拙著は多くの方の目に触れていただくことができました

 

その結果、何の期待もなくほぼノリでweb上のプロフィール欄に公開していた私のGmailアドレスにまさかのご連絡があり、双葉社さまから、「プロパガンダゲーム」を紙書籍化したいというお話をいただきました

(「お仕事はこちら⇒adress」といった表記を「来るわけないでしょ」と冷笑する向きが一分にありますが、連絡先の公開、とっても大切です)

このメール内容と、敬愛する編集者・Dさんとのこれまでのやりとりも自分にとって本当に印象深く書きたいことだらけなのですが、それを書いているとこの記事が永遠に終わらなくなるので、それはまたの機会といたします

 

と、こんな経緯があり、「プロパガンダゲーム」には、「16年版(電子書籍版)」と「双葉文庫版」の2つのバージョンが生まれました

 

ここから、ついにタイトルの話になります

(ここまでで3641字です、本当にすまないと思っています)

 

双葉文庫版(紙書籍版)と16年版(電子書籍版)の「プロパガンダゲーム」は何が違うのか 

最も大きな違いは、ゲーム中の視点が「主観」か「客観」かという点です

 

双葉文庫版は、ゲーム中は「選考に参加している特定人物」の視点で物語が進み、その人物たちの感情も詳しく描写されます

プロパガンダゲーム (双葉文庫)

プロパガンダゲーム (双葉文庫)

 

 対して16年版では、ゲーム中は「選考を観ている人物」の俯瞰視点で物語が展開し、ゲームに参加している誰の心中も分からない状態となっています

プロパガンダ・ゲーム(16年版)

プロパガンダ・ゲーム(16年版)

 

 そして、この観点の違いによって、それぞれの物語は違った結末を迎えます 

 

つまり、16年版では読者は観測者であるため、「ゲームの観測者」として最後を迎えますが、双葉文庫版では、読者は参加者であるため、「ゲームの参加者」としてのラストシーンを迎えるということです

 

 こうした事情から、双葉文庫版は16年版(電子書籍版)からラストシーンに関する1万字ほどの加筆があり、視点の関係で全面的な改稿が行われています

 

作品の読み方については、作者があまりどうこういうものではないと思っているのでごく簡単にポイントを書きますと、「16年版から双葉文庫版」という読み方をすると、俯瞰で見ていた登場人物がその当時何を考えていたかが分かり、「双葉文庫版から16年版」という読み方をすると、客観的なゲームの進行状況と、改稿前の原文が分かるという状況になっております

 

なお、「16年版」については相当好き放題に書いたことを自負しているのですが、双葉社さまは本当に寛容で、出版にあたって元の電子書籍版を取り下げることを要求されたりすることも一切なく、改稿時も全面的に元の内容を尊重していただいております

 

プロパガンダゲーム」について、長々と書いてまいりました

僕からお伝えしたいことは、「このゲームを広めてほしい」ということです

 

この物語は、「三段階の入れ子構造」を意識して制作しています

はじめの箱は「作中のゲーム」

次の箱は「作中の現実」

そして、3つめの箱が「私たちが生きる現実」です

 

読んでいただいた方は、意味を理解していただけるかもしれません

つまり僕は、「現実対虚構」の第二ラウンドをやりたくてこの物語を書いています

 

 

 

結局、シン・ゴジラの話になってしまいました

純粋に2つの作品の違いを知りたかった方には大変冗長な文章だったかと思います

とても深く反省しています

 

ということで、「プロパガンダゲーム」双葉文庫版と16年版の違いを説明させていただきました

そもそも、この両者の非常に単純な違いとして「紙書籍と電子書籍」というものがあるのですが、ここについては、前回の記事で記載したこともあり、今回はあえて説明を省略しました

 

「紙か電子か」議論について僕からお伝えしたことはひとつで、「電子書籍は紙書籍の敵ではない」ということです

 

電子メディアには「みんなとつながっている」という感覚があり、紙メディアには「メディアと、わたしと、ふたりっきり(『ハーモニー』伊藤計劃著)」という感覚がある

特徴が違いますから、本質的には競合ではないというのが僕の考えで、この考えは今後も変わらないと思います

 

ですので「プロパガンダゲーム(双葉文庫版)」「プロパガンダゲーム(16年版)」、どちらを読んでいただいても作者は歓喜します

 

メディアを超えて、このゲームが多くの方のもとに届けば幸いです

はじめての電子書籍ガイド(スマートフォンでのkindleの読み方など)

電子書籍元年」は終わるのか

「これから普及する」と何度も言われながら、国内ではまだ認知度が低い電子書籍。2010年は「電子書籍元年」と呼ばれ、電子書籍への理解は少しずつ広がっていますが、爆発的な電子書籍ブームは、いまだ訪れていないようです。 

電子書籍を普及させよう」という動きは、電子書籍を出版している著者の方々や、新たに事業を作ろうとしているみなさんの間では常に活発であるものの、既存の出版業界にはその動きがなかなか波及していないのが現状かと思います。

その状況から、「出版業界が電子書籍の普及を妨害している」といった主張も一部にはありますが、実情はそう単純ではないと感じます。

というのも、「紙書籍を好んでいる」のは何も出版業界に関わる方々だけではなく、読者の方々の意向でもあると感じるからです。

自分自身、電子書籍を出版・販売する中で、友人に「やっぱり本は紙で読みたい」と伝えられることが度々ありました。

それと同時に聞こえてきたのが、

「専用のタブレットを買わないと、電子書籍って読めないんだよね?」

という声です。

電子書籍は専用の端末がないと読めない」という誤解は多くの方が抱いており、紙への愛着に加え、こういったいくつかの誤解も、電子書籍が普及していかないひとつの要因になっているのではと感じました。

そこで今回は「電子書籍ってそもそも何なの?」という話から「実際に電子書籍を購読するのに役立つ情報」「電子書籍の未来」といったお話をしていこうと思います。

 

そもそも電子書籍って何よ  

 ウィキペディアの「電子書籍」の項目には、「……金属、樹脂、磁性体等の素材に、電磁的、または、レーザー光等で記録した情報」云々といった形で電子書籍の定義が非常に厳密かつ難解に説明されているのですが、大変分かりづらいので、ここではより簡潔な言葉で電子書籍をご紹介します。

 

電子書籍は、大まかに言えば「インターネット上で配信されている、デジタルファイル化された読み物系コンテンツ」の総称です。

名前に「書籍」とある通り、情報はページごとに分かれており、タッチすることでそのページがめくられていく仕様が主流です。

 電子書籍をダウンロードできるプラットフォームは複数ありますが、MMD研究所が行なった「2016年電子書籍に関する利用実態調査」(2016年3月調査)によれば、利用率1位は大手通販サイトAmazonが提供する「Kindleストア」で、その利用率は全体の45%にのぼるということです。2位は楽天が運営する「楽天Kobo」(27.6%)、3位にはAppleが運営する「iBooks」(17.9%)と続きます。

 インプレスR&Dの調査では、2013年頃にはKindleの利用率は50%を超えていたため、電子書籍業界の勢力図は少しずつ変化してきていると感じます。今回の記事では、この利用率を前提に、電子書籍ユーザーの半数近くに使用されているKindleの解説を中心にしながら、他の電子書籍についても少し触れていこうと思います。(僕自身がKindleで書籍を出版しているため、Kindle寄りの解説が厚くなることをご了承ください)

 

スマートフォンタブレットがあれば、電子書籍はだれでも読める!

はじめにも触れましたが、電子書籍を敬遠している方々が抱いている誤解のひとつが「電子書籍は専用端末を新たに購入しないと読むことができない」というものです。

これは、電子書籍を専用端末で読みながら、街角で「読みやすい!」を連呼していた「Kindle」のTVCMの影響が少なからずあるんじゃなかろうかと個人的には思っているのですが、実際は、専用端末がなくとも、電子書籍は読むことができます。

 まず、混乱を招きやすい「Kindle」という単語について解説いたします。「Kindle」という単語は大きく分けて2つの意味で使われます。

 ひとつは、世界的な通販サイトAmazon」が販売する「電子書籍リーダー」としての意味です。先述したKindleのTVCMでは、この意味で「Kindle」という言葉が使われています。

もうひとつは、Amazon」が提供する「電子書籍販売サービス」としての意味です。Amazonは、電子書籍を購入・出版できるプラットフォームを自社で用意しており、その販売スペースをKindleストア」、そこで公開している販売ランキングをKindleランキング」と呼んでいます。 

そしてAmazonは「Kindleストア」で購入した電子書籍を、スマートフォンタブレットで簡単に読むことができるよう、Kindleアプリ」を無料で提供しており、このアプリをダウンロードすることで、専用端末を持っていなくとも、「Kindleストア」で販売されている電子書籍が読めるになります。

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Kindleアプリをスマートフォンタブレットでダウンロードし、Kindleストアで電子書籍を購入する」という方法が、現在、電子書籍を読みはじめる上で最も「手軽な第一歩」ではないか、と僕自身は考えています。

 

電子書籍と購入手段

幅広い年齢層の方がKindle電子書籍を購入する際に、

ハードルだと感じたもののひとつが、「購入手段」です。

通販サイト「Amazon」では、通常の商品を購入する際には「代引き」による現金決済が可能ですが、電子データである電子書籍を購入する際には、「代引き」の手続きが行えません。

AmazonKindleストアで電子書籍を購入する際に利用できる手段は2つで、

1つは「クレジットカード決済」

もう1つがAmazonギフト券による支払い」です。

クレジットカードをお持ちで、その利用にも不安のない方は問題なく電子書籍を購入することができるのですが、なかにはクレジットカードをお持ちでない方や、利用が不安だという方もおられるかもしれません。

そういった方々にとって嬉しい存在が、Amazonギフト券です。

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このギフト券はコンビニエンスストア等で購入でき、裏に記入されているコードを入力することで、Amazonで利用できるポイントを手に入れることができます。

iTunesカードなどと手続きは全く一緒です)

このギフト券をコンビニ等で購入し、ポイントを登録することで、簡単にKindle電子書籍が購入できるようになります。

僕自身、クレジットカードの「無限に購入できてしまいそうな感覚」が苦手なので、普段は「この金額だけ本を買おう」と決めたうえで「Amazonギフト券」を購入してKindle電子書籍を購入するのが習慣になっています。

 

「店舗で電子書籍を売る」実験

「そうは言っても、実物がないものを購入するのは不安だ」という声もあるかもしれません。そういった方々の声には、「楽天Kobo」と「BookLive」の協力で実験的に開始されているサービス「Booca(ブッカ)」が将来、応えてくれる可能性があります。

Boocaは「電子書籍を書店店頭で陳列し、購入することができる電子書籍カードおよびサービス」の愛称です。 

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図のように、本棚に似た形式で書店の一角にカードが陳列され、このカードを購入することで、当該タイトルの電子書籍を、提携する電子書籍配信サイトからダウンロードして読むことができます。2014年6月16日から11月21日まで、三省堂書店神保町本店などで実証事業が行われ、この実証事業の結果次第では、全国の書店に「電子書籍カード」が並ぶ未来がやってくるかもしれません。

(一般社団法人日本出版インフラセンターによる実証事業の総括はこちらで読むことができます)

 

電子書籍が「紙と変わらない」?

電子書籍を語る際には、常にそれを読む「端末」が話題になります。

ご紹介したように、アプリをダウンロードすることで、みなさんがお持ちのタブレットスマートフォンでも読める電子書籍があるのですが、「液晶画面で長時間文字を読みたくない」といったご意見もあります。

電子書籍業界では、この「液晶画面での文字の読みにくさ」を大きな問題として捉え、その解決のために力を注いできました。ここで、先ほどご紹介した「Kindle」の電子書籍リーダーにお話を戻します。

CMでも話題になっていた電子書籍リーダーKindle Paper White」は、読書感覚を紙に近づけるため、「フロントライト方式」を採用しています。

 テレビをはじめ、これまでの液晶画面は「バックライト方式」と呼ばれる形式を採用しており、これは簡単に言えば「目に向かって、直接光を放つことで映像を見せる」形式です。

この方式にも一定のメリットがあり、それは、「人の感情を揺さぶりやすい」ということです。常に光が目に向かってくることで、受け手は強い刺激を受けるのですが、これは「文章を読む」という目的とは一致しない特徴でもあります。

 

フロント・ライト方式とは、「ライトガイド(図の第1層)から発せられる光を、一旦、文字が記載されたPaperWhiteディスプレイ(図の第3層)の方向へと放ち、ここで反射された光がユーザーの目に映る」という形式で、この方式では、「明かりの下で紙の本を読む」のと非常に近い感覚を得ることができます。このような技術によって、電子書籍を読む感覚は、紙書籍を読む感覚へと近づいてきています。


おわりに

ここまで、電子書籍に関する様々な情報をご紹介してきましたが、僕は「紙書籍の時代は終わり、電子書籍の時代が来るんだ!」といったことを主張するつもりは全くありません。

まだまだ普及率は低いですが、電子書籍を読む人が増えることは、作家にとっても、読書愛好家にとっても、嬉しいことなのではと思います。

僕自身は、電子書籍を利用するようになったことで、保有できる本の数が増えたり、長編小説をどこにでも持ち歩き、読むことができるようになりました。

ただふと、辞書のようにずっしりと重い書籍を手にとり、その書籍と二人きりで、ゆっくりと時間を過ごしたいと思うこともあります(伊藤計劃著『ハーモニー』のミァハの影響を強く受けていることを白状します)。

 

電子書籍は、本を愛する人々が新たに得られた「選択肢」なのだと思います。

あくまで選択肢ですから、この存在を読書家や作家が敵にするのも味方にするのも、自分たちの考え方ひとつなのでは、と考えています。

この記事が、その選択肢の存在を知っていただき、そこへ進むためのちょっとしたガイドラインになれば幸いです。

 

P.S.

(末尾に、先週出版した拙著のリンクを貼らせていただきます。

名前が物騒ですが、電子書籍を試しに読む際の実験台にしてもらえばと思います) 

プロパガンダ・ゲーム

プロパガンダ・ゲーム

 

 

【ネタバレ有】「シン・ゴジラ」感想と考察

 

どうも

ゴジラほどではないですが

長い眠りから醒めることに定評のある拙ブログです

 

実は7月29日に「シン・ゴジラ」が公開されてから、3年前に私が書きました、

エヴァンゲリオンとウルトラマン」というブログ記事にアクセスが増えておりまして

 

今読み返してみると、上記の記事の中には

偶然「シン・ゴジラ」の根底にある重要な要素が網羅されていることに気づきました

 

おそらく、目ざとい庵野秀明ファン、エヴァファン、特撮ファンの方が、検索で辿り着いてくださっているのだと思います

 

上記の記事には、ネタバレなく「シン・ゴジラ」という作品をより深く楽しめる、庵野秀明監督にまつわるトリビアがやたらと放り込まれておりますので、よろしければご覧ください

 

さて、ここからは、公開初日にちゃっかりPARCO2のIMAXで観てまいりました、庵野秀明総監督「シン・ゴジラ」の感想と考察をネタバレ全開でお送りします

まだご覧になっていない方は、くれぐれもご注意ください

 

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ということで

観てまいりました「シン・ゴジラ

 

例のごとくあらすじ等に関しては様々なサイトでまとめられていますので、私は本当に感想と考察だけ書いていきます

 

 

観終わった後のはじめの感想は、

庵野監督、ありがとう

です

 

私はそんなにたくさん映画を観ているわけではないのですが、

自分がここ20年劇場で観た日本映画の中で、最高の作品だと本気で思いました

 

詳細はこれから書きますが、

「完成度が高い」というのとはまた違っていて、

とにかく、総監督の庵野さんと、監督の樋口さんに感謝したい作品でした

 

 

この映画は「会議」と「戦闘」が構成の中心になっており、

その両シーンが非常に面白いです

 

個人的には、冒頭から例の「作戦BGM」が流れるまでの会議シーンは、

この映画におけるコメディーパートなのだと思いました

 

不可解な現象の中、会議室では「出演:日本国政府一同」のコントが行われ続けます

 

「上陸はないって言っちゃった後だぞ!」や「それ、どこの役所に言ったんですか?」等、

政治家の「パフォーマンス主義」と「官僚のセクショナリズム」を

見事に表現したセリフが、軽快なカット割りで次々と展開していきます

 

冒頭のほとんどが会議室のシーンでありながら、これだけ飽きずに見られるのは、

庵野監督のカット割りの巧みさと、セリフの面白さが主因だと感じました

 

個人的には、

総理レク(チャー)

という字幕が大変ツボでした

 

「こんなに会議シーンいらないだろ」というご意見もあると思うのですが、

『パシフィック ・リム』のギレルモ監督は、同作のオーディオコメンタリーの中で、

「冒頭で出撃シーンを丁寧に描くことで、以降それが繰り返されていることが分かる」

と発言しており、冒頭の会議シーンは、そういった役割を果たしていると感じました

 

日本における「政治的決定」がどのように行われているのかを一度描くことで、

以降、この物語においてどのように物事が決定しているかが理解できるというわけです

 

感謝ポイントは数限りなくあるのですが、今回の「シン・ゴジラ」は、

「実写版エヴァンゲリオン的な側面もあり、そこも自分にとっては面白かったです

 

上記の記事にも書きましたが、 エヴァンゲリオンにおける「NERV」は、庵野さんの

ウルトラマン科学特捜隊が本当にあったら、その内部はどうなっているんだろう」

という疑問から出来た組織で、今回の怪獣に対応する政府の様子が大変リアルなのは、

庵野さんがエヴァンゲリオンでNERVを描いた経験が強く関係していると感じました

 

さらに言えば、

シン・ゴジラ」は、現在の日本を舞台にしたリアル『ヤシマ作戦だと思います

巨災対」のはじめての会合の瞬間にあの作戦BGMが流れた時は燃えました

国家の存亡をかけた作戦を「巨災対」が中心になって実行していくその様を観ながら、

「俺はこれが見たかったんだ!」と心の底から思いました

 

はじめに「完璧な映画ではない」という趣旨のことを書いたのですが、

この映画において私が「これは……どうなんだろう」と思ったのは、

「クローバー・フィールド」的演出のシーンで登場する一般人が総じて棒読みなのと

石原さとみさん演じるカヨコ・アン・パタースンという存在そのものです

 

シン・ゴジラ」という映画自体は、

ゴジラ」と「日本沈没」と「エヴァンゲリオン」を足して割らないで二時間に収めたような作品だと思っていて、総合的には満点以上の映画なのですが、

カヨコ・アン・パタースンは、

惣流・アスカ・ラングレー葛城ミサトを足した後に誤ってル―大柴が混入した人物であり、彼女が話しだすと作品自体が「虚構」の方に揺らぐ感覚がありました

 

石原さとみさん自身は、雑誌インタビューの中で

「『エヴァンゲリオン』の中に登場するような、庵野さんの描く女性像が視聴者の目に映ったらいいなと思って演じました」

と答えており、「あーこのへんはアスカイメージしたんだろうな」とか「このあたりはミサトさん意識してんな」という部分はあったんですが、いっそのこと彼女の台詞は、全て英語か日本語に統一したほうがよかったんではないかと感じました

 

いろいろと感想を書いてきましたが、ここからはそれをふまえて個人的な考察です

 

まず強く感じたのは、

シン・ゴジラ」は、初代「ゴジラ」製作者の精神を継承しているということです

 

初代「ゴジラ」の生みの親、本多猪四郎監督は、映画を撮る際に、

制作の田中友幸氏と、特撮監督の円谷英二氏に対して、

「原爆の驚怖(原文ママ)に対する憎しみと驚きの目で造っていこう」

と発言しており、「ゴジラ」は原水爆、ひいては戦争の恐怖を具現化した存在でした

初代ゴジラは、本多猪四郎監督のジャーナリズム的精神と、

円谷英二特撮監督の天才的な芸術センスにより出来上がった、傑作映画でした

 

今回の「シン・ゴジラ」において庵野総監督自身は明言していませんが、

ゴジラは、東日本大震災東京電力福島第一原発事故を具現化した存在だと感じました

 

具体的には、ゴジラ第二形態」が東日本大震災による津波を象徴しており、

第三形態以降が、東京電力福島第一原発事故を象徴していると感じました

 

ゴジラ第二形態は、しばらく全容を現さず「川」を低い姿勢で登っていき、

以降の形態からは「放射能汚染」と「何が起こるか分からない」ことが問題になります

 

映画の構成自体が3月11日の地震発生から3月12日以降の原発災害をなぞっており、

シン・ゴジラ」は、「日本を襲った歴史的災厄を怪獣化する」という、

ゴジラ」本来が持っていた意味を、しっかりと表現してきたと感じました

 

ですので、東北や、熊本の人々にとっては辛いと感じられる映像もあると思います

 

ただ、「ゴジラ」という災厄を戦う人々の団結と、そこで繰り出される台詞の数々は

観る人々に勇気に与える力強いもので、私は「今こそ観るべき映画」だと感じました

 

内容の考察として多くの方が一番気になっているのは、

「ラストシーンの意味」ではないかと思います

 

ラストシーンでは、凍結されたゴジラの尻尾先端で、

「人間のような生物」が生まれようとしていたことが映し出されます

 

このシーンには様々な解釈があると思うのですが、

まずは、ヤシオリ作戦という 作戦名の由来を理解することが重要だと感じました

 

巨災対」が立案した、ゴジラを凍結し停止するプランが「ヤシオリ作戦」です

凍結のために必要な化学物質を、転倒したゴジラの口から摂取させるという展開は、

「薬は注射より飲むのに限るぜ、ゴジラさん!」

という「ゴジラビオランテ」における権藤一佐の名言のオマージュもありつつ、

由来は、日本神話に登場する「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」にあるだろうと思います

 

ヤシオリ作戦」のヤシオリは、八岐大蛇を眠らせるために飲ませた、

「八塩折之酒(ヤシオリノサケ)」が由来で間違いないかと思います

化学物質を飲ませるための特殊車両は劇中で「アメノハバキリ」と呼ばれており、

これはヤマタノオロチを倒した剣「天羽々斬(アメノハバキリ)」と合致しています

 

とすれば、ゴジラは神獣「ヤマタノオロチ」を指しており、

ゴジラの尻尾」は「ヤマタノオロチの尻尾」と関連性がある可能性が高いです

 

ヤマタノオロチを倒した後、その尾から現れたのが

「草那芸之大刀(クサナギノタチ)」で、これは日本国の三種の神器となっています

草那芸之大刀は、三種の神器の中で天皇の武力」を象徴しています

 

仮説としては、ゴジラヤマタノオロチ)を倒した後の尻尾からは、

「この国を作り変えるような強大な武力」が生まれると私は考えています

 

尻尾から生まれたのは、人型で武器によって破壊することができない「完全生物」、

具体的には、「風の谷のナウシカ」で登場する巨神兵を僕はイメージしました

 

樋口監督と庵野総監督は「シン・ゴジラ」でタッグを組む前に、

エヴァQ」と同時公開された短編映画巨神兵東京に現わるで協力しています

 

そう考えた上で映画を見直すと、「シン・ゴジラ」におけるゴジラの放射熱線は、

風の谷のナウシカ」における巨神兵」の発する光線と非常に似通っています

 

冒頭で紹介したブログ記事でも記載しましたが、「風の谷のナウシカ」において、

巨神兵の絵コンテを担当したのは、若かりし頃の庵野さんです

 

こうした背景を考えると、ラストシーンでゴジラの尻尾から生まれかけていたのは、

「人型の完全生物で、人類を脅かす強大な武力を有しており、形状は巨神兵に近い」

とまとめられるかと思います

 

これらのことをふまえ、最後の考察です

そもそもどうして、ゴジラの尻尾から、「人型」の生物が生まれるのでしょうか

 

冒頭に登場するグローリー丸(初代ゴジラの「栄光丸」のオマージュ)には、

牧元教授の「私は好きにした 君らも好きにしろ」という手紙、折り鶴、眼鏡、靴

そして、宮沢賢治の詩集春と修羅が置き去りにされています

 

はじめにこの映画を観た際は、「牧元教授は自殺したのだ」と多くの方が感じると思いますし、私自身もそう思っていました

 

ただ、牧元教授が妻を奪った放射能を憎んでいたこと、研究内容の一部が意図的に空白にされていたことを知った後に、グローリー丸に置き去りにされていたものをもう一度見ると、自分の中で、全く違った結論が出てきました

 

これはあくまで個人的な感覚ですが、この世に絶望して自殺しようという人間が、あんなにきれいに眼鏡を揃え、靴を揃え、詩集を置いていくでしょうか

 

牧元教授の遺体が見つかったという情報は、劇中に一切登場しません

 

極めつけは、宮沢賢治の詩「春と修羅」の内容です

シン・ゴジラ」を観終わった方は、ぜひこの詩を最後まで読んでください

 

私は、「牧元教授は海底に飛び込み、ゴジラの一部になった」のだと思いました

 

劇中では、ゴジラが生まれた原因を、

「偶然海底に生存していた古代生物が、不法廃棄された放射性廃棄物を捕食した」

と説明していますが、それでは二足歩行であること、東京を繰り返し襲うことが説明できません

 

牧元教授は、海底に自ら飛び込むことで、ゴジラを完成させるために必要だった最後のピース「ヒト遺伝子」を提供したのではないでしょうか

 

牧元教授がゴジラの一部になっていたと考えれば、二足歩行であることも、自分と妻を見捨てた「日本」という国の中枢、東京を襲うという行動をとることも、合理的です

 

 

そして、元々「ヒト遺伝子」を取り込んでいるからこそ、

ラストシーンでゴジラの尻尾には、「人型」の生物が生まれるのではないでしょうか

 

「おれはひとりの修羅なのだ」

 

 これが、牧元教授の気持ちだったということです

 

 

 

さて

 

軽い気持ちで書き始めたこの記事も、気づけば5000字が近づいてきてしまいました

 

最後に伝えたいのは、

「『シン・ゴジラ』は最高の映画だが、これは元から2回以上観るべき作品で、2回目以降から理解できる本当に面白い要素がいくつもある」

ということです

 

みなさん、「シン・ゴジラ」を観ましょう

私のこの記事はほんのひとつの考えでしかないので、

これからたくさんの方の「シン・ゴジラ」考察が読めると本当にうれしいです

 

最後に、

庵野監督、本当にありがとうございます

お体に気を付けて、また面白い作品を作って下さい

新作品が公開されたら、

這ってでも行きます

 

 

【ネタバレ有】「スターウォーズ/フォースの覚醒(エピソード7)」感想と考察

 

どうも

コールドスリープしているブログを

突然呼び覚ますことに定評のある私です

 

以前のブログも『エヴァQ』を観た途端に更新を再開したのですが

今ブログは『スターウォーズ』と共に再開です

 

※ここから先は盛大にネタバレを含みますので未見の方はお気をつけください

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ということで

観てまいりました「スターウォーズ/フォースの覚醒」

 

あらすじ等に関しては様々なサイトでまとめられていますので、

僕は本当に感想と考察だけ書こうと思います

 

 

観終わった後のはじめの感想は

レイ、強すぎ

です

今回初登場キャラで「フォースの覚醒」のヒロインであるレイですが、春麗も真っ青の格闘系ヒロインでした

 

・2対1の劣勢でストームトルーパーを肉弾戦で倒す

・はじめて乗ったミレニアム・ファルコン号を自在に操る

・師がいなくてもフォースを習得する

・敵側の主力「カイロ・レン」を修行なしにライトセーバーで打ち負かす

 等々、軽く引くくらい強かったです

 

「マッドマックス~怒りのデスロード~」を観た際にも感じましたが、「男性に守られる女性」という構図はハリウッド映画においては過去の産物になりつつあるのですね

エピソード4ではレイア姫はホログラムでオビワンに助けを求めていたわけですが、エピソード7ではレイはことごとく自力で窮地を脱していましたね

男性主人公であるフィンが手を繋ごうとするたびに、

全力で拒絶する姿が印象的でした

 

そして、レイの強さと関連して浮かんできたのが、

レン、弱すぎ

 という感想です

 

今回初登場のキャラクターで、ファースト・オーダー(帝国の流れを継ぐ勢力)側に属する仮面の剣士「カイロ・レン」氏ですが、ポスターやパンフレット等では最も手強い敵のような雰囲気を醸し出していました

 

ただ、個人的にはレン氏のことは上映前から

ダース・ヴェイダーのコスプレをしているようにしか見えない」

と思っていて、どうもルックスに迫力を感じなかったのですが、

実際本編を観てみてわかったことは、

彼は実際にダース・ヴェイダーコスプレイヤーだったということです

 

厨二病」兼「グランドファザーコンプレックス」ということで

キャラ立ちという意味では他の追随を許さないカイロ・レン氏ですが、

手負いだったとはいえ、格ゲー的に表現すればガチャプレイ状態だったレイさんとのライトセーバー戦に負けてしまったのは驚きましたし、

「師が必要だな」

などと余裕をこく前にしっかり鍛錬を積んでほしいと感じました

 

 どの面下げて初日のメモリアルパンフレットの表紙を飾ってるんだ」と各所で話題のキャプテン・ファズマ女史の活躍(通称:ファズマ問題)含め今回の帝国側の皆様は非常に頼りなく、ラスボスのヴォルデモートっぽい人もホログラムが巨大すぎて逆に弱そうでしたし、ファースト・オーダー(帝国側)の銀河侵略遂行能力には、大変不安が残りました

 

今回は エピソード4で登場した「デス・スター」をさらに巨大にしたような「スター・キラー」という一撃で複数の星を葬る恐ろしい兵器が登場したのですが、ご機嫌なナイスガイ、ポーをはじめとする反乱軍側に内外部から弱点を狙われ、エピソード4の頃よりも随分たやすく爆発炎上させられてしまいまして、帝国側の皆様には、ぜひ前任者との引継ぎをしっかりしていただきたい、具体的には「星に匹敵するような巨大兵器に、一撃で本体が全壊するような深刻なセキュリティホールを作らないでいただきたい」という気持ちでいっぱいでした

 

さて、ここまでの内容で

「こいつはよっぽど新作が気に食わなかったんだな」

と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、それは誤解だったりします

 

僕は今作を、「スターウォーズ新章の導入としては最高に近い作品」だと思っています

というのも、ここまで書いたものを振り返ると分かる通り、この映画を観終わった後に自分の心に強く残ったもののほとんどは、新キャラクターたちの動向だったからです

 

レイの住居を遠目から見た際に実は建物がAT-ATの残骸だと分かる演出、

ポンコツ」呼ばわりからのミレニアムファルコン号登場、

ハン・ソロの「いやな予感がするぜ」という台詞、

敵陣でのチューバッカ無双、

歳を経て指導者としての貫禄が出たレイア姫etc…

 

挙げればきりがないくらい、これまでのSWシリーズを観てきた人間ならついつい嬉しくなってしまうシーンや演出は大量にあったのですが、

それでいて『スターウォーズ/フォースの覚醒』は、観終わった後に「新キャラたちのことを考える」映画なんです

 

これってすごいことだと思うんですよ

 

これだけ作品やキャラクターに人気があったら、今までのストーリーとキャラクターを本当にただ踏襲するだけでも充分と考えてしまいそうなものですが、

監督のJ.J.エイブラムスはこれまでのSWの歴史を大事にした上で、「新しいキャラクターたちが強く印象に残る」映画を作っているんです

 

もちろんすべてがいい印象でないことは確かなのですが、それも含めて、

「新しいスターウォーズ・シリーズが始まったんだ」

という気持ちを自分は抱いたので、この作品は本当に気に入っています

 

そのうえで、「フォースの覚醒」からはじまる新3部作に僕が唯一抱いている危惧は、

このままいくと共和国圧勝じゃない?

というものです

 

「フォースの覚醒」ラストシーンではレイは隠遁していたルークと出会います

今作のストーリー全体がエピソード4の展開をなぞっていたことを考えると次回作ではエピソード5をなぞりレイはルークと修行を行うことになりそうですが、

そもそもレイは自力でフォースを習得してしまいましたし、最後に登場したマーク・ハミル演じるルークさんの方が元気がなくて心配(お腹もちょっと出ている)だったので、ルークがレイを稽古するよりレイがルークをリハビリする方が説得力がある気はします

(友人宅で観た『レーザーホーク』という超低予算のB級映画「自分は銀河の平和を守る正義の宇宙人だ」と言い張る精神病患者役として登場しているマーク・ハミルを観たときは涙を禁じえなかったです)

 

ただ、もし立ち直ったルークとレイが修行することになれば、レイの強さに更に磨きがかかり、圧勝ムードがより強まってしまうのではないかという懸念があります

スターキラーは木端微塵ですし、 そもそもレイはカイロ・レンにいきなり勝利してしまっています

「強敵に敗けて修行の後リベンジ」が少年漫画の王道ですが、今回のスターウォーズ新三部作ではそれが成立せず、修行する必然性もありません

次回作の展開は、非常に読みづらいと言えます

 

長々と感想を書いてきましたが、ここからはそれをふまえて個人的な考察です

 

僕は、レイが暗黒面に堕ちて新帝国の指導者になるのではないかと思っています

 

現時点でダークフォース側にいるカイロ・レンはこれからヴォルデモートっぽい人(スノーク氏)に再び指導を受けて立派な暗黒卿を目指すようですが、

正直ここまでの描かれ方で彼は弱さを強調されすぎていて、かつ才能がないということも婉曲的に言われているので、恐ろしい敵にはなりえないと感じています(ちょっとカイロ・レンくんがかわいそうになってきました)

前述のスノークさんも、ラスボスとしてはパンチが弱いです

 

対して、レイは非常に強力なフォースを持っており、誰の指導も受けない状態でフォースを覚醒させ、ライトセーバーを操り、カイロ・レンを圧倒しています

額へのキスシーンから、フィンへは恋愛感情に近い感覚を持っている可能性もあり、R2-D2に義手を置くフラッシュバックシーンから、ルーク(スカイウォーカー家)と繋がりがある可能性も示唆されています

加えて、初めてBB-8に接した際に、レイは「曲がっているアンテナを直し」ます

これは、アナキンと同じ「フォースにバランスをもたらすもの」の暗喩とみることができるのではないでしょうか

冒頭に貼った「フォースの覚醒」の公式ポスターをそのような視点で振り返ると、いかにもレイが「ダークサイドとライトサイドの境界」にいるように見えてきます 

 

以上のようなことから僕は、新三部作では「ダークフォースに目覚め、史上最強の敵となったレイを、ライトフォースに戻ってきたカイロ・レンが一生懸命努力して倒す」展開が来るのではないか、というか来てほしいと思っています

 

正直、すぐにキレてコックピットをライトセーバーでバンバン壊しちゃう(そして「まーたやってるよ」とストームトルーパーさんたちにも呆れられちゃう)カイロ・レンさんを応援したくなっている自分がいるわけです

今作で登場したキャラクターの中で、一番人間味があるのが彼だと思うんですよ

今回彼は大変な罪を犯してしまいましたが、ここで彼を悪役に固定せず、贖罪を目指した方が新世代の映画になるのではと、そんなことを思ったりもしています

 

とまぁ、長々と書いてしまいましたが、こうして「ああでもないこうでもない」とスターウォーズについてまた考えられるようになったこと、そして2年後には完全新作が続編として公開されること、そのことが本当に嬉しいです

 

今週中にまた劇場に足を運んで、気付いたことがあったら書き足していこうと思います

 

以上「スターウォーズ/フォースの覚醒(エピソード7)」感想と考察でした

次回更新は2年後です(?)

お金とコンテンツと、時々オカン

 

どうも

 

知人のFacebookの「傘盗まれた…」という投稿に

すごい量の「いいね!」がついているのを見ながら

善意とは残酷なものだなと思っている僕です

 

今日は「コンテンツを買う」ことについてです

 

普段何気なしに行ってる「物を買う」という行為ですが

曲がりなりにも自分で物を売るようになって

「みんな何かを買うとき、何を考えてその決定を下すんだろう」

と思うことが増えました

 

僕が今日何を買ったかを思い返してみると

朝はまぁいつも通り1分でも無駄にするとデッドラインに達する時間に目覚めたので

何も食わず店にも寄らず事務所に向かったわけですが

それから午前中はせっせと作業し

昼間には

「お、新しいパスタが出とるがな」

と思い、青いコンビニで「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」を購入

 

午後は動画編集の仕事を終え

昔イービーンズの天敵だった赤い店でうどん(¥120)を買い

2点まで260円だったので到底食いきれない量のハッピーターン×2を買い

ハッピーパウダーまみれの指でこのブログを書いているわけですけれども

 

「自分が何でそれを買ったか」を思い返してみると

けっこう物を売るときのヒントにもなるなぁと思いまして

まず、なんで「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」を買ったかを思い出してみると

 

前提として

「腹が減った」

という根源的な欲求があったわけですね

 

「そうしないと困る」というのは非常に強力な行動動機になるなぁと思っていて

先日観た「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の中で

主人公を演ずるディカプリオが

(最近の彼はレオ様というより非常にディカプリオな感じですね)

 

「俺にこのペンを買わせてみろ」

 

と仲間たちに言いながらチンケなボールペンを渡すんですね

 

言われた仲間たちは

 

「このペンはとても品質が良くて」

「インクがスイスイ」

 

とか一生懸命言うんですがディカプリオは呆れるばかり

 

それで仲間の黒人俳優を指して「売ってみろ」と言うと

その黒人は一言、

 

「名前を書け」

 

と言うわけです

そしてディカプリオはその回答に満足する

 

必要性を作れば物は売れるわけですね

今日僕がパスタを買ったのはその理由が大きいと思います

 

基本的にいわゆる三大欲求は人間から涸れることはないので

食・性・睡眠に関わる職はどれだけ時が進んでも残り続けるんだろうなと思います

「睡眠」ってちょっとニッチすぎる市場じゃないのって話ですけど

これ単に宿やベッドという意味じゃなくて

仏教用語で「睡眠欲」って「楽をしたい気持ち」のことを言うらしいんですね

 

つまり

楽をするための商品は開発され続けるだろうし

みんなもそれを買い続けるだろうと、そんなかんじのお話です

 

ということでこの三大欲求に関わるものは

人間が生きていく限り勝手に必要性が生まれるので

コンテンツとしては最強だと思います

 

逆に言えば、ここに関わるコンテンツしか儲からない時代って

あんまり文明的な時代じゃないんじゃないのと思ったりします

この前

「100年前まで遡って、その年のベストセラーを紹介した表」

twitterで見かけたのですが

現代に近づくにつれベストセラー内にいわゆる「ハウツー本」が増えるんですよね

あぁどんどん「睡眠欲」ばかり高まってる時代なんだなと思うと

なんだか空しくなりました

 

で三大欲求はちょっとキラーコンテンツすぎるので一回置いておいて

それ以外で人が物を購入するときの判断材料を考えます

 

僕が今日のお昼、ねぎとろ巻きでも他のパスタでもなく

「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」を購入したのは

「まだ一度も食べたことがなかったこと」

「他の同量の商品に比べて50円安かったこと」

が主な要因として挙げられます

 

マーケティングぽい言葉に直せば

「新規性」と「価格競争」の2つをみたときに

「よくばり和風醤油パスタ(¥450)」は優れていたとか言えるんでしょうか

 

この2つも大変重要な要素だよなぁと思いながら

ちょっと今日も電子書籍の話に繋げていこうと思うんですけど

 

「新規性」と「価格競争」はもちろん電子書籍でも重要な要素ですが

電子書籍を売る際に何が困難かというと

やはり一番は

「実物がないこと」

だと思うんですね

 

いや、実物はあるんですよ?

あるんだけどないというか

「あると断言できる価値観が社会で支配的でない」

みたいな言い方になるんですかね、よくわからないですけど

 

「1000円札を渡すと、質感を持った紙の本が代わりに渡される」

これは非常に分かりやすいですよね 身体的にも分かりやすい

これだけの厚さのものを作るのには紙もインクも労力もきっと必要だったんだろう

だから自分が対価を支払うというのも当然だろう

そういうロジックが簡単に成り立つ

 

ただここで身体感覚が軽薄になると、対価を支払うという感覚も軽薄になる

重くも軽くもない、質感も香りもない、ただデータだけがある

ネットで違法ダウンロードや無料のコンテンツが流行るのは

つまるところこの身体感覚に起因するんじゃないかと思ったりします

何かを買っても、逆に買わなくても、自分は重い思いをしたりしないわけです

 

大きなファイルをダウンロードすると

「このファイル重い」

なんて言いますけど

物理的に本当に重くなったら

みんなもっとそのファイルに対して対価を払う気になるんではないかな

なんて思ったりします

 

ニコニコ動画をあそこまで大きくした立役者でもあるドワンゴ川上量生さんが

cakesというサイトで

「コンテンツにお金を払わないのは親の躾が悪い」

なんてドぎついことを言っていましたが

僕はちょっと一理あるなと思っていて

 

僕は小学生くらいの頃、スーパーで無料の試食コーナーがあると

必ず並んでソーセージとか牛肉とか食べてたんですけど

あまりに毎回やってるもんだから

ある日母が叱ってきたんですね

「無料なのに何でいっぱい食べちゃだめなの?」

と子どもの僕は聞いたわけなんですけど

そんとき母が言った言葉が

 

「はしたないでしょ」

「そんなに食べられたら売店のおばちゃんも困るでしょ」

 

の二言で、今振り返るとまぁこの言葉に尽きるのかなぁと

 

もちろん無料でコンテンツを消費するのがいけないなんて言うつもりはなくて

嫌だったら無料で提供しなきゃいいわけですよ

売店のおばちゃんもおいしそうに目の前で肉焼かなきゃいいんですよ

 

それでもなんでおばちゃんがおいしそうに目の前で肉焼いてるかって言ったら

「美味しかったら買ってね」

って思ってるからですよね

そこを忘れちゃうとまずいよなぁと

 

「肉を食う」って目的を達成するためなら試食コーナーで良いのですが

「この美味い肉を作ってる人に頑張ってもらいたい」と思ったら

購入するという行為はその気持ちを伝える手段になるのだよなと

 

今の時代、どんな音楽もネットで検索すれば

必ずYoutube上に違法か公式か、とにかく動画が上がっていて

それを再生すれば

「そのアーティストの楽曲を聴く」という目標は達成できるわけですよね

ただ、その人たちに頑張ってもらいたいと思ったら

iTunesで曲を買ったり、ライブに行ったりするって選択肢があるわけで

 

コンテンツを提供する側に対して理解のある世の中にならないと

このネット社会はコンテンツとその奥にいる人たちを

食いつぶしてしまうのかもなぁと

そんなことを思った月曜日でした